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2008年12月28日日曜日

中学時代の友達は一生の友達となる、か

中学時代の友達は、一生の友達になる

中学1年のときの担任の先生の言葉です。

しかし、友達がいなかった私にとっては、残念ながら、むしろこちらの方が実感に近かったです。

中学時代のいじめっ子は、一生のいじめっ子になる

私には友達がいなかったのですが、そのためか、いじめっ子にまとわりつかれていました。友達はいないのにいじめっ子ならいるという、中学時代でした。

困ったことに、彼らは私が中学を卒業した後もちょっかいをかけ続けました。あるいじめっ子は、私と進学した高校が別になったにもかかわらず、なお私に関わろうとし続けました。

その後高校を卒業して大学に進学し、もういじめっ子ともおさらばだろうと思っていたのですが、なお私に関わり続けたいじめっ子がいて(別々の大学なのに…)、閉口させられました。

その後私の側が引越したのを期に、ようやくいじめっ子との関わりが切れたのでした。向こうは私の新しい住所や連絡先を知りませんでしたから。「一生のいじめっ子」にはならなかったものの、一つ間違えれば本当にそうなりかねないところでした。

大学生にもなって中学時代のクラスメイトをいじめ続けるなんてと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、現実にこうした人がいたのですから、仕方がありません。

「中学時代の友達は、一生の友達になる」を、学校生活の人間関係をいわば表面から見たものとすると、「中学時代のいじめっ子は、一生のいじめっ子になる」は、裏面から見たものと言えます。こうした裏面からの見方は人気が無く、あまり表立って語られることはないように思います。

2008年12月26日金曜日

坂野雄二『無気力・引っ込み思案・緘黙』

本今回は、これまでにも何度か引用してきた本・坂野雄二著『無気力・引っ込み思案・緘黙』、黎明書房、1989年についてお話します。

この本は、「非社会的行動問題」と呼ばれる、子どもの目立たない行動問題を取り上げています。

全175ページのうち、9-71ページが引っ込み思案の内容です。

本書は、少なくとも私が見た限り、引っ込み思案を体系的にまとめた数少ない国内文献の一つで、貴重なものだと思います。

実は、同時収録されている「緘黙」も、体系的にまとめた文献は少ないです(「無気力」については知りません)。目立たない行動問題は研究が盛んではないのでしょうか。それだけに、よくぞこうした本が刊行されたものだと思います。

20年前の本というのが少々気になりますが、内容のどこが古くて、どこが今日でも通用するかが私にはまだ十分分からないので、このことについて深入りは避けます。

この本は、全国の公立図書館にときどき置いてあることがあります。ただ、一般向けに書かれた本ではなく、かなり技術的な内容も含まれているので、少し読みにくいかもしれません。

2008年12月25日木曜日

孤食

私は子どもの頃、いつの間にか孤食を好むようになりました。

これには、私に友達がいなかったことが関係していたのかもしれません。学校では極度の不安から友達ができず、そのうち独りで過ごすことに楽しみを見出すようになってしまいました。これにより、家庭でも、独りで食事をすることを好むようになってしまったのでしょう。

また、我が家は母子家庭であったため、孤食になりやすい環境もありました。

幼い頃からみんなで食べる楽しさを体験していると、人の気持ちがよくわかるようになり、思いやりの心が育ちます。

「楽しく食べる子どもに~食から始まる健やかガイド(厚労省パンフレット)」
(新しいウィンドウで開く)

食育という点からも、やはり独りはよくないのでしょうか…?

* * * * * * * * * *

なお、現在でも私は孤食を好んでいます。独りで食べるのは気楽でいいと、つい考えてしまいます。また、家族と一緒に食べようにもそうした環境が十分にないのも事実です。

いつだったか、テーブルに家族全員の食事を用意されたとき、私は家族と一緒に食事をとるのがあまりに苦痛だったため、自分の分だけを持ち出して部屋で独りで食べて、親にしかられるという、そうしたことを繰り返していた時期があります。「独りで食べるご飯はおいしくない」という言葉をときどき耳にしますが、私はまったく違った感性の持ち主のようです。

2008年12月22日月曜日

引っ込み思案児、成人してどうなったか知りたい

友達がいて仲間同士活発に交流できる子どもを教育者は理想的と考える傾向があるけれども、友達がいなくていったい何が悪いんだ。引っ込み思案も一つの個性で、色んな子どもがいていいんだ。

こうしたちょっと哲学的な議論、それはそれで結構だと私は思います。

しかし、私は、そうした哲学的な話よりも、実際のところ友達がいない子どもや、引っ込み思案な子どもが、成人してどうなったかを知りたいです(実証研究というものです)。他の子どもと変わらない割合で社会適応を果たしたかどうか。内気なタイプの引っ込み思案児の場合、成人して何らかの不安障害やうつなどを持つようになってはいないか。

英語圏では、こうした実証研究により、引っ込み思案のリスクが少しずつ分かってきたようです。もっとも、日本語圏ではこのあたりのところは、まだ十分に明らかにされていないのではないかと思います。引っ込み思案児の社会適応には、その国の文化も影響していそうで、日本語圏でも実証研究を期待したいところです。

2008年12月18日木曜日

さほど親しくない同級生に年賀状を送ったら…

私が中学1年の頃の年末は、年賀状をかなり積極的に送りました。友達はもちろん、さほど親しくないクラスメイトにも、何通か送ったのです。

引っ込み思案の私がどういう風の吹き回しだったのか、どのような考えがあってこのようなことをしたのか、よく覚えていません。

相手は、それほど親しくもない私から年賀状を受け取り、きっと戸惑ったことだろうと思うのですが、全員お返しの年賀状をくれました。

そのうちの一人に、I君という同級生がいました。冬休みが終わって3学期に入ると、彼の私に対する態度が少し変わりました。これまでよりも親しく接してくれるようになったのです。彼とは中2以降はクラスが別々になったのですが、その後も、私に会う度にとても親しくしてくれました。高校3年になっても、相変わらずクラスが違うにもかかわらず「富重ちゃん」と親しく接してくれたので、驚いたものです(I君とは同じ高校に進学しました)。

このI君の態度の変化、どうしてなのか私にはよく分かりません。ですが、おそらくはあの年賀状により、引っ込み思案の富重ちゃんが、実は自分を親しく思ってくれたと受け取り、優しくしてあげようと思ったのではないかな、と私は考えています。だとしたら、I君は心優しい人です。

やはり友達を作るには、自分から動くことが大事そうです。もっとも、それが簡単にできれば苦労はしないのですが…。

2008年12月17日水曜日

社会的スキル訓練

引っ込み思案児の援助方法としてよく挙げられるのが、社会的スキル訓練(社会的スキルトレーニング、ソーシャル・スキル・トレーニング、SST)と呼ばれるものです。

そのSSTについてここでまとめたいのですが、私はまだまだ勉強中で、それだけの力はありません。そこで、SSTの理解に役立ちそうな文献へリンクを貼り、説明の代わりとすることにします。

※ Google ブック検索へのリンクです。ところどころ読めないページがあります!

◇ 社会福祉士国家試験研究フォーラム(2006)『スーパー合格社会福祉国家試験対策標準テキスト』秀和システム。
※ (新しいウィンドウで開く

◇ 向井通郎(2005)「苦手な相手、困難な状況への対応演習」In 森本美絵、向井通郎『保育士をめざす人への社会福祉援助技術』(pp. 104-110)ふくろう出版。
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◇ 渡辺弥生(2006)「ソーシャル・スキル・トレーニングとサイコドラマ」In 長田久雄(編)『臨床心理学』(pp. 197-205)日本文化科学社。
※ (新しいウィンドウで開く

◇ 渡辺弥生(1996)『ソーシャル・スキル・トレーニング』日本文化科学社。
※ (新しいウィンドウで開く

2008年12月14日日曜日

その人に好かれたいなら、好意を示せ、尽くせ、与えよ

私は姉妹ブログで、「緘黙ストーリー」と題し、場面緘黙症とともに歩んできたそれまでの私の人生を振り返る連載を続けています。これを書いているうちに、自分はなんて単純な子どもだったのだろうと気づきました。

私に対して優しくしてくれたり親切に接したりしてくれた人には、私も自然に好意を持ちました。しかし、私をいじめたり悪意を持って接したりした人には、良い感情を持てませんでした。実に分かりやすい子どもです。

しかし、人間、多かれ少なかれこういうものなのかもしれません。

「人に好かれたいなら自分を忘れよ」という言葉がありますが、その人に好かれたいのであれば、自分から好意を示したり、その人のために尽くしたり与えたりすることが大事です。そうすれば、相手も好意を持ってくれるというものです(そうはうまくいかないことも多いですが…)。ですが、相手が好意を持ってくれるのを待っているだけではいけません。引っ込み思案な子どもはこうしたことがなかなかできず、友達を作る上で問題となりそうです。

私の場合、幸い、極度な引っ込み思案だったにもかかわらず、多くのクラスメイトが親しくしてくれました。ですが、こうしたことが長らく続いたものですから、すっかり受身な行動様式と思考回路が身についてしまいました。「黙って大人しくしていても、みんなが何かしてくれる」いつまでもこのような意識を持ち続けてしまうと、痛い目を見ます。

2008年12月12日金曜日

集団遊びと社会的自立

政府による新しい「青少年育成施策大綱」が発表されました。メディアでは、ニート、引きこもり、フリーター対策の部分が重点的に報じられていますが、次のような箇所もあります。

ⅳ 社会的自立につながる活動機会の保障
 (集団遊びの機会の確保)

  放課後児童クラブ、児童館、都市公園等の設置を推進し、集団遊びの場を確保するとともに、放課後子ども教室等を通じて、地域住民の参画を得て、学習活動やスポーツ・文化芸術活動、レクリエーション等の機会を提供する取組を推進する。

子どもの集団遊びは、将来の社会的自立につながるということのようです。

昔から「よく遊び、よく学べ」と言いますが、子どもの頃に遊ぶことは大事だという話はよく聞きます。例えば『保育用語辞典』の「集団遊び」の項目には、次のように書かれています(林邦雄, 2007)。

集団遊びでは、ルールを共有し、互いに摩擦を繰り返し、刺激を与えあいながら、人間関係能力、自己決定能力、情報処理能力などを、遊び体験を通して身につけていくという教育的効果がきわめて大きい。

(中略)

また、集団遊びは、幼児の個としての責任感や社会性を自然に獲得する意味でも重要な内容を含んでおり、保育者は集団遊びの指導力はもとより、その必要性を十分認識する必要がある。

※ 集団遊びについて、学術的にどういう理論や実証研究があるかは、現在探しているところです。勉強中ですが、分かり次第、ブログで書いていきたいと思っています!

となると、こうした集団遊びに加われない引っ込み思案児は、集団遊びによる教育的効果を享受できず、将来の社会的自立に不安を抱えることになりはしないでしょうか。

子どもに集団遊びの機会を確保すると、遊び上手な子どもはよく遊ぶことができるでしょう。しかし、そうした遊びに加われない引っ込み思案児は相変わらず十分に遊べないままではないかと思います。こうした子どもも集団遊びに加わることができるようにするためには、場合によっては「社会的スキル訓練」が必要です。

ちなみに、子どもの頃に引っ込み思案傾向があった私は、集団遊びの経験が極端に少なかったです。幼稚園の頃からお遊戯の時間が苦手でした。小学校に入ると友達があまりできなかったため(全くいない時期もありました)遊びにもあまり誘われず、一人で過ごすことがとても多かったです。また、集団遊びとは少し違いますが、仲間通しの交流が重要となる遠足や合宿といった学校行事は苦手で、苦痛でさえありました。もっとも、このことが、私の現在の状況とどこまで関係があるかは分からないのですが。

◇ ◇ 青少年育成推進本部(2007)青少年育成施策大綱、
http://www8.cao.go.jp/youth/suisin/taikou_201212/pdf/taikou_z.pdf、最終アクセス2008年12月12日。
◇ 林邦雄 (編)(2007)『保育用語辞典』、一藝社。

2008年12月10日水曜日

「友達」とは何か

「友達がいない子」というブログを立ち上げておきながら、「友達」とは何かについてまだ書いていませんでした。

■ 「友達」の意味

友達の定義は様々でしょうが、例えば、『大辞泉』の「友達」の項目には、次のように書かれてあります。

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。

「互いに心を許しあって」とありますが、「互いに」という点に注目することは重要です。例えば、AさんとBさんがいて、AさんはBさんのことを友達だと思っていても、Bさんがそう思っていなければ、両者は友達とは言えないでしょう。

だとすると、面白いことに、誰にも心を許さず、「あの人は自分の友達ではない」「あの人も自分も友達ではない」「自分には友達が誰もいない」と考えている人(例。私)は、友達が一人もいないということになります。

■ 補足・「引っ込み思案」は、厳密には友達がいないこととは異なる

私がこのブログで特に意識しているのは、これまでもお話してきた、子どもの「引っ込み思案」(socially withdrawl)」と呼ばれる行動傾向です。

「引っ込み思案」の定義も様々ですが、例えば、坂野雄二氏は、「引っ込み思案」を次のように定義しています。

人前で話ができず、だれかが話しかけても、うなずいたり簡単なことばで返事をするだけで自分からは積極的に話すことができない、遊び場面に自発的に入ることができずに傍観者として周囲から見ているだけである、集団になじめない、仲間となじめずに孤立していることが多い、人とほとんど交わらない、などといった、社会的・対人的な場面で示される非社会的で後退的な行動傾向(坂野, 1989)

このように、厳密には、「引っ込み思案」は、友達がいないこととは異なります。もっとも、こうした引っ込み思案児には、「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」や「一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人」はいないでしょうから、友達がいないと言えるでしょう。

[関連記事]

◇ 友達がいない子とは

[文献]

◇ 坂野雄二 (1989). 無気力・引っ込み思案・緘黙, 黎明書房.

2008年12月9日火曜日

コメント・友達なんて、いない方が楽しい!

前回の投稿「友達なんて、いない方が楽しい!」に、少しコメントを付け加えます。

■ 友達がいる状況からそうでない状況になると、寂しくなる。しかし、そのうち…

こんな私も、友達がいなくなった当初は寂しい思いをしたようです。

もともと友達がいた状況からいなくなると、寂しいものなのでしょう。

ですが、当時の私はそのうち孤独な状況に楽しみを見出し、友達を作らないようになってしまったものですから、先生にとっては頭の痛いところだったろうと思います。

■ 友達がいない子を問題視する小学校教師

小学校の教師は、友達がいない子どもを問題にするものです。

それはおそらく第一に、人との交流を子ども時代に経験しないと発達に影響があると考えられること(例えば、古くはピアジェの『児童道徳判断の発達』やミードの『精神・自我・社会』に、正常な発達には仲間との相互交流の重要性であることが理論として示されているそうです(Rubin, Burgess & Coplan, 2002))、第二に、それとは別に、友達付き合いをすること自体が価値あることだという考えからでしょう。

経験上思うのですが、学校教育の現場では、教師が児童生徒に友達作りの必要性を訴える場合は、大抵後者を持ち出します。友達は大事だよ、と。

しかし、前者を持ち出すことはありません。つまり、友達付き合いをしないと発達に影響があるから友達を作りなさいと、教師が児童生徒に訴えることはありません。それはそうでしょう。

私は冷たい考え方をする子どもだったので、友達が大事だとか、友情がどうのとか言われても、友達を作る気にはなれませんでした。しかし、例えばピアジェの理論を引き合いに出して、正常な発達には仲間との交流が大事と説得されたら、友達を作ろうという気になったかもしれません。しかし、子どもの友達というのは、そのような考えで作るものではありません。

[文献]

◇ Rubin, H.K., Burgess, B.K., & Coplan, J.R. (2002). Social Withdrawal and shyness. In P.K. Smith & C. Hart (Eds.). Blackwell’s Handbook of Childhood Social Development (pp. 329-352). London, U.K.: Blackwell.

2008年12月8日月曜日

友達なんて、いない方が楽しい!

昨年の3月に、姉妹ブログで「友達なんて、いない方が楽しい!」という記事を書いたところ、反響をいただきました。その内容を、このブログに転載しようと思います(一部編集しています)。私の過去についてのことです。

友達はいた方がいいのか、いなくても構わないのか、私はまだ結論を出せないでいます。

* * * * * * * * * *

小学5年生の新しいクラスでも、友達はなかなかできませんでした。前の学校の友達M君以来、半年以上にわたって友達がいない状態が続いていました。

最初は、友達ができず、寂しい思いをしたものです。

しかし、そのうちに感じ方が変わってきました。友達が欲しいだなんて、これっぽっちも思わなくなりました。友達がいない学校生活の方がずっと楽しいという、相当変わったことを本気で考えるようになっていったのです。

■ 友達がいないことを、前向きに受け止めよう!

これをプラス思考と言うのでしょうか。私は友達がいないことを前向きに受け止めるようになっていきました。

友達がいないことの大きなメリットは、自分の時間を自由に使うことができることです。友達がいなくなったことによって、好きな妄想…もとい、考え事を存分にすることができるようになりました。

また、私は休み時間に一人計算ドリルを解いて、算数を得意科目にしていました。しかし、もしこのとき私に友達がいたとしたらどうでしょうか。友達付き合いに縛られ、ドリルを解くことなどできなかったかもしれません。

■ 教師や親は、「友達がいない学校生活も、素晴らしい!」と教えるべきだ

私は、「友達がいない学校生活はつまらない」という固定観念にとらわれていたのではないかと考えるようになりました。そして、そうした固定観念から自由になり、「友達がいない学校生活も楽しい!」と気づくに至ったとき、自分の学校生活に初めて充実感を得ることができるようになりました。

そうすると、今まで私に固定観念を植え付けようとしていた教師や親は、いったい何だったのだろうと不遜な疑問を抱くようになりました。

世の中には、友達と過ごすことに喜びを感じるタイプと、一人でいることに喜びを感じるタイプと、二通りの人がいるのではないかと私は考えていました。しかし、圧倒的に多くの教師や親は、「友達がいない学校生活はつまらない」と教えるために、後者のタイプの子どもが自分の学校生活はつまらないものと思い込み、苦しんでいるのではないか、そんなことを考えるようになっていました。

こういう次第ですから、友達が欲しいだなんて、これっぽっちも思わなくなりました。

■ 変人富重

こんなことを本気で考えていた私は、相当な変わり者だったのでしょう。

だいたい、場面緘黙児のような不安が強くて人付き合いが苦手なタイプの人は、寂しがり屋なものです。私はその寂しがり屋というところが、決定的に欠けていたのかもしれません。

■ その後の富重

最後に、また少し先の話をします。

私の上のような考えは、中学、高校と進むにつれて、ますます強くなっていきました。「友達は、いた方がいいよ。友達は一生の財産になるよ」といろんな先生方が私におっしゃいましたが、私はその度に「この先生も、分かってない…」とがっかりするだけでした。

特に、高校では「志望の大学に合格するためには、周りに流されてはいけない」という格好の理由付けがあったため、私にとって友達作りは忌むべきものとさえなりました。

しかし、大学に入ると少し迷いが出てきました。友達もいないような学生は、就職できないというのです。「じゃあ、就職対策に友達作っておく必要があるかな。でも、そんな動機で友達を作ったら、相手に失礼ではなかろうか」こんなことを本気で考えていました。それでも、「勉強が友達、勉強が恋人」と一心不乱に勉強に励んでいた学生時代が、私にとって一番幸せでした。…怖いですか?こんな人。

2008年12月6日土曜日

「好きな人同士ペアになって」

友達がいなかった私にとって、学校生活で困ったことの一つが、「好きな人同士ペアになって」「好きな人同士グループに分かれて」と言われたことでした。

一緒になる相手がいなかったからです。余ってしまい、どうしようかとあたふたすることが多かったです。日ごろ一人でいることを好んだ私も、これには参りました。

■ 好きな人同士VS出席番号基準

先日、姉妹ブログ「場面緘黙症Journal」で出席番号のお話をしました。

友達がいなかった私は、先ほどのような好きな者同士ではなく、出席番号をもとに機械的にペアを組まされたり、グループに分けられたりした方がありがたかったです。余る心配がないわけですから。もっとも、私と一緒にさせられた相手はどう感じていたか分かりませんが…。

普通は、好きな人同士の方がいいという児童生徒の方が多いのではないかと思うのですが、私は正反対だったわけです。

出席番号をもとにペアやグループを組んだり、座席に並んだりするのは、必ずしも好きではない、相性の会わない相手と付き合う大事な経験なのだろうと思います。

2008年12月5日金曜日

友達がいない子、私はどのタイプだったか

前回、友達がいない子の分類のお話をしましたが、子ども時代の私は、これらの分類の一体どれに当てはまるのだろうかと考えてみました。

○ 不安が強いタイプ
○ 一人でいることを好むタイプ
○ 他の子どもに友達になりたいと思われていないタイプ
○ 人との付き合い方が分からないタイプ(社会的スキルが欠如しているタイプ)

■ 不明の時期

幼稚園~小学校3年の頃の私は、一体どの分類に当てはまるか分かりません。別に不安が強かったわけでもありませんし、自分から好んで一人でいたわけでもありません。他の子どもに友達になりたくないと思われていたのかどうか、社会的スキルが足りなかったのかどうか(人との付き合い方が分からなかったかどうか)、このあたりも判然としません。

■ 不安が強いため友達ができくなった

小学校4年から、私は学校で不安や緊張が極端に強くなりました。不安のあまり、学校で話せなくなる「場面緘黙症(選択性緘黙)」という情緒障害にかかったほどです。この頃の私は、明らかに不安が強いため友達ができないタイプでした。

■ そのうち、一人でいることを好むようになった

しかし、そのうち私は、むしろ一人でいることに楽しみを見出すようになりました(小学5年以降)。この頃の私は、不安が強いタイプとも、一人でいることを好むタイプとも言えます。

■ そのうち、人との付き合い方が分からなくなった

そうして一人で過ごしているうちに、いつの頃からか、人との付き合い方、つまりは社会的スキルが足りなくなりました。今度は、スキル欠如型にも当てはまるようになってしまったのです。

この頃になると、不安が強いタイプとも、一人でいることを好むタイプとも、スキルが足りないタイプとも、どれにも分類できます。


友達ができない子については様々な分類がありますが、この子はこのタイプ、あの子はあのタイプと、固定できるものなのでしょうか?

2008年11月30日日曜日

友達がいない子の分類

友達がいない子については、分類が行われています。

様々な分類があり、私も全てに目を通したわけではないのですが、現在のところ私の調べた限り、友達がいない子の分類はおおむね次の2つのタイプに分けることができます。

◇ 葛藤的内気(conflicted shyness)、社会的無関心(social disinterest)、活動的孤立(active-isolation)

Coplan 氏らは、一人で遊んでいる子どもを、葛藤的内気(conflicted shyness)、社会的無関心(social disinterest)、活動的孤立(active-isolation)の3つのタイプに分類しています(Coplan, Prakash, O'Neil & Armer, 2004)。

葛藤的内気は、他の子どもと交流を持ちたいにもかかわらず、あまりに不安や恐れが強くて、社会的交流に参加できないタイプです(some children play alone because even though they would like to interact with others, they are too anxious or fearful to initiate social interaction)。

社会的無関心は、社会的交流を行う強い動機を持っていないタイプです(other children play alone because they do not have a strong motivation to engage in social interaction)。

活動的孤立は、遊び相手に交流をしたいと思われていないタイプです(other children play alone because their play partners do not wish to interact with them)。

Rubin 氏らは、活動的孤立(active-isolation)と社会的引きこもり(social withdrawal)に二つに分け、さらに社会的引きこもりを不安性孤立(anxious solitude)と社会的無関心(social disinterest)に分けて論じていますが(Rubin & Coplan, 2007)、Coplan 氏らの分類とかなり一致しています。

◇ スキル欠如型、不安型、自発型

坂野雄二氏は、「引っ込み思案」を、スキル欠如型、不安型、自発型の3つのタイプに分類しています(坂野, 1989)。

スキル欠如型は、「社会的スキルが欠如しているため、あるいはその発達が遅れてしまっているために非社会的となり、対人的な場面で後退傾向が顕著となってしまったケース」です。ここで言う「社会的スキル」とは、いわば「うまく付き合っていくことができるために必要な社会的・対人的技能」を指しています。

不安型は、「単に社会的スキルの欠如にとどまらず、引っ込み思案の背景に、対人的・社会的場面あるいは集団場面に対する過度の不安や緊張の認められるケース」です。Coplan 氏が言う「葛藤的内気」と同じと考えてよいでしょう。

自発型は、「いわば自分から自発的に引っ込み思案的な行動・態度を示すケース」です。Coplan 氏が言う「社会的無関心」と同じと考えてよいでしょう。

なお、Harrist 氏らは、幼児期の社会的引きこもり(social withdrawal in early childhood)を、受動的不安(passive-anxious)、非社交的(unsociable)、活動的孤立(active-isolates)の3つのタイプに分類していますが、これは坂野氏の分類とほぼ同じものです(Harrist, Zaia, Bates, Dodge & Pettit, 1997)。

* * * * * * * * * *

このように様々な分類があるのですが、どの論者の分類にも共通するのが、不安が強くて友達がいない子と、自分で友達と一緒にいないことを選択している子を分けていることです。

いずれにせよ、一口に友達がいない子といっても様々なタイプがあり、タイプ別に分けて考えることが必要です。

[文献]

◇ 坂野雄二 (1989). 無気力・引っ込み思案・緘黙, 黎明書房.
◇ Coplan, R.J., Prakash, K., O'Neil, K., & Armer, M. (2004). Do you "want" to play? Distinguishing between conflicted shyness and social disinterest in early childhood. Developmental Psychology, 40(2), 244-258.
◇ Harrist, A.W., Zaia, A.F., Bates, J.E., Dodge, K.A., & Pettit, G.S. (1997). Subtypes of social withdrawal in early childhood: sociometric status and social-cognitive differences across four years. Child Development, 68(2), 278-294.
◇ Rubin, H.K. & (2007). Coplan, J.R. (2007). Paying Attention to and Not Neglecting Social Withdrawal and Social Isolation. In G. Ladd (Ed.) Appraising the Human Developmental Sciences: Essays in Honor of Merrill-Palmer Quarterly. Detroit: Wayne State University Press.

2008年11月29日土曜日

友達がいない子とは

友達がいない子。

英語圏の学術界では、"socially withdrawn children" などと呼ばれています。

日本語圏では、「社会的引きこもり児」「引っ込み思案児」「孤立児」「集団に入れない子」などと呼ばれてきました。「社会的ひきこもり児」は "socially withdrawn children" の直訳ですが、近年社会問題となっている、自宅にこもって社会参加していない若者のことではありません。

主に、保育所から幼稚園ぐらいの子どもが対象に論じられることが多いですが、小学生や中学生の子どもが対象にされることも珍しくありません。

友達がいないというのは、あくまで状態を表すもので、診断名ではありません。

坂野雄二氏は、次の5つのケースを「引っ込み思案」から除いて考えています。(1)知的な発達の遅れのあるケース、(2)自閉症および自閉症傾向と思われるケース、(3)身体疾患や身体に障害の認められるケース、(4)緘黙、(5)反社会的な孤立(坂野, 1989)。

このブログでは、そのあたりはあまりこだわらず、友達ができない子全般について、主に幼稚園児や小学生を中心に、中学校やそれ以降の学年の子も視野に入れてお話しようと今のところ考えています。

[関連記事]

◇ 「友達」とは何か

[文献]

◇ 坂野雄二 (1989). 無気力・引っ込み思案・緘黙, 黎明書房.

2008年11月23日日曜日

自己紹介・メールアドレス

富重洋(とみしげ・ひろし)と言います。これはハンドルネームで、実名ではありません。

メールアドレスは、以下の通りです。

smjournal77@yahoo.co.jp

私は幼少の頃はとても大人しく、友達が少ない子でした。小学校4年になると場面緘黙症(選択性緘黙)という情緒障害になり(自己診断ですが)、ますます友達を作るのが難しくなりました。中学2年から大学卒業後に至るまでのおよそ10年間、友達が一人もいませんでした。

男性です。昭和50年代の生まれです。大学時代の専攻は経済学であり、教育関係については独学です。

現在、複数のサイトを運営しており、それらのサイトから広告収入を得ています。将来的には運営サイトをさらに増やし、広告収入で経済的自立を果たすことができればと考えています。とても難しいことでしょうが、一般的な働き方をするのは、私にとっては、さらに難しいです。

私が運営しているサイトのうち、主なものを挙げると、次の通りです。

[場面緘黙症Journal]
http://smjournal.com/

[場面緘黙症Journal(ブログ)]
http://smjournal.blog44.fc2.com/

[ニートひきこもりJournal]
http://nhjournal.blog37.fc2.com/

はじめに

このブログでは、友達がいない子についてお話します。

友達がいないことは問題なのか、そうでないのか、私自身結論が出ていません。

「人がひとりでいるのは良くない」(『聖書』創世記)(日本聖書協会, 1954)

友達がいない子は、「非社会的問題行動」「非社会的行動問題」などとして、教育の分野で問題にされることがあります。そのままにしておくと、社会性の発達に影響があると考えられるからです。にもかかわらず、こうした子は不登校等の子に比べて目立たないために、見落とされがちなのではないでしょうか。私は、こうした子たちに適切な支援が行われることが必要だろうと考えることがあります。

「つまらぬ友と付き合うくらいなら一人で生きよ」(海軍将校コリングウッド)(Smiles, 1998)

ただ、友達を作らないというのも一つの生き方だろうとも思います。友達がいない、少ないというのもその子の個性であり、必ずしも否定するべきものではないのではないかと思うこともあります。

友達がいない子についての研究や、私自身の体験等から考えたことについて、まとめていきたいと考えています。日記形式のブログには、あまりしないつもりです。友達がいない子については、私はまだまだ勉強中です。間違い等があれば、遠慮なくご指摘ください。

◇ 日本聖書協会. (1954). 旧約聖書. In (1971). 日本聖書協会. 聖書, 1-1326.
◇ Smiles, S. (1998). 自助論 (竹内均, Trans.). (Original work published 1859)